こんばんは、真美です。春雨の晩いかがお過ごしでしょうか?
房総半島では朝から冷たい雨が降り続いております。
朝起きて、今日は寒いと微妙に憂鬱になったことに気づいた後、私の冬の喜びは「こたつで昼寝すること」を思い出しました。
週末からまた東京→大阪に行くので(こたつは千葉のみ)、もしかしたらこの冬最後になるかもしれないと思うと、こたつにいる瞬間瞬間が貴重に感じ、一日中ほぼこたつで過ごし、19日13時〜に予定している瞑想のオンライン講義の資料の準備をしていました。(もちろん昼寝もしました^^)
サロンが始まった日の勉強会のあと、ダイレクトコースの方ではかなり多くのやりとりがされ学びが深まっていて嬉しく思っておりますので、ベーシックコースの方でも瞑想の講義の前段階として記事を書きたくなりました。
瞑想を本格的に実践したことがある人ほど、瞑想ってかなりしんどいことだということをご存知だと思います。
私がこれまで経験してきた長期の瞑想合宿では、回を重ねるごとに辛さが増すのです。過去は記憶でしかありませんから正確な比較はできませんし、気のせいかもしれませんけど‥
ただ座って呼吸や感覚に意識を置いておくということが数時間ならまだしも、それが1日中、しかも11日間、情報や他人などほぼ全ての外部のものを遮断して、自分の体や心から逃げられない環境に身を置くことを想像したとき、それは素晴らしい!やってみたいと思える人はかなり限られていると思います。
それは想像以上にしんどいのですが、それなのに私はなぜ続けてきたのかなと想うと、心の深い部分が浄化されたことを実感できるからだと思うのです。
瞑想に慣れてくれば座っていること自体は楽になっていきますので、肉体的な苦痛と言うより精神的な苦痛が増してくるのですが、しんどさの中に静寂がやってくることが増えてきたりもしますから、やはり瞑想中にも大きな喜びがあるのでしょう。
私はまだ真我に留まり続けていることはできませんから、苦しみからの完全な解放は終わっていませんし、完全なる悟り、解脱というゴールに到達するに至っていませんが、どの道をあるけばそこに到達できるのかを知っていると思えることは大きな自信ですし喜びです。
心の深い部分の浄化と書きましたが、それは何もこの世的に言う悲惨な出来事やストーリーのことでだけはありません。
どちらかというと、とっても微細な不満感のことの方が厄介な気がするのです。
記憶にはっきり残るような大きく感情が揺さぶられた出来事は嫌でも何かと意識させられる機会に恵まれます。
しかし、微細な不満感というのは日常の忙しさ、楽しいこと、または怒りや恨みなどによりすぐ忘れることができるものです。
忘れるといっても心の中から消えるわけではありません。
それは心の中に居座り続け、それにより動かされていることが多々あるということにどれだけ気づくことができるかが、とても重要だと想うのです。
普段いかに自分がそれを直視するのを自動的に避けているのかに気づいた時、大きな安堵感を感じます。
やっと捕まえた!そんな気分になり、それによりどう変化していくのかが恐怖でもあり楽しみでもあります。
瞑想の訓練を積み重ねることにより、自分を知るということの本当の意味が理解できたと思っています。
それまでの「自分を知る」とは、エゴの部分で何をやりたいのか?何がやりたくないのか?何を達成したいのか?この世界で自分はどうやって生き残っていくのか?みたいな浅い部分でしかなかったと思います。
日常のふとしたときの些細な繊細な気づき、そこにとても大事なものがあり、それに向き合うことの楽しさを身に付けられたのは瞑想のおかげでもありますし、それだけではなくたくさんの偉大なる先人たちが残してくれた教えに触れることができたからだと思います。
あなたはなぜ瞑想に惹かれ、それを学ぼうと思ったのか?そしてその目的な何か?
もしよければサロンのFBグループの方にコメントしてください。
できればですが、思考したことではなく本音をお聞きしたいと思っています。(図々しいお願いですみません、でも考えた綺麗事をお書きいただいても話がイマイチ発展していかないので。)
私もなるべく考えたことではなく、経験したことやその時の直感で回答しています。
このサロンでは頭で考えることから少し離れていただきたいと思っておりますので、気が向いたらぜひよろしくお願いいたします。
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